名古屋市千種区で金城次郎「抱瓶」を買い取らせていただきました。

名古屋市千種区で金城次郎の抱瓶(だちびん)を買取させていただきました。抱瓶とは沖縄で使われる携帯用の酒瓶で、陶製で三日月形の断面をしており、肩からひもでつるして使います。名古屋骨董店では金城次郎の作品のほか、骨董品や美術品、掛け軸などの買取も行います。

金城次郎 抱瓶 買取相場¥5,000円~20,000円

金城次郎とは

金城次郎は1912年に生まれ、2004年に亡くなり、沖縄県初の人間国宝として認定されました。彼は民藝運動の中心人物であり、その影響を受けて、日常的な日用品に美を見出す作品を作りました。彼の作品は壺屋焼(上焼)として知られ、魚紋などユーモラスな絵柄で有名です。また、金城次郎の子どもたちもすべて陶芸家であり、一族は「金城一門」として知られています。

壺屋焼について

小さな島々から成る沖縄は12世紀頃から海外の陶磁器が輸入され、琉球王国が海外貿易を盛んに行っていた14~16世紀頃には、中国や南方諸国の陶磁器が豊富に持ち込まれるなど、東アジアの焼物の集積地のひとつでした。1609年に薩摩が琉球を侵略し、薩摩の治政下におかれ、海外貿易も下火なると、その事を危惧した琉球王国の尚貞王は産業振興の目的で薩摩から朝鮮人の陶工(一六、一官、三官)を招き、湧田窯での製陶技術の習得に力を入れ始めました。

この時に後の荒焼に繋がる技術がもたらされたと言われています。その後も東アジアの様々な地域から製陶技術を学ぶ中で上焼が誕生し、今日の壺屋焼の主流を占める伝統技術に火が灯されたのです。そして1682年に王府の手によって美里村知花窯(現・沖縄市)、首里宝口窯、那覇湧田窯が牧志村の南に統合され、現在の「壺屋焼」が誕生しました。その後も王府は御拝領地や御拝領窯を与えたり、功績を残した陶工を士族に列するなど、焼物づくりの発展に尽力しました。こうした王府のバックアップにより、壺屋は多くの名工を輩出したのです。

明治維新後、琉球王国は幕を閉じ陶工は王府の庇護から自由競争に入りました。日露戦争による一時的好景気にはなったものの、本土の安価で軽い焼物が大量に流入し一般庶民に浸透した事により、壺屋焼は最大の危機に立たされる事となりました。

そのような状況の中、大正時代に転機が訪れます。民藝運動を興した浜田庄司氏、河井寛次郎氏、つづいて柳宗悦氏らが沖縄の焼物を本土に紹介したのです。その結果、それまで沖縄という地が、地理的条件や他国の支配下にあるという閉鎖的条件だったため、広く知られることが無かった沖縄の焼物が全国で注目されることとなりました。そして沖縄の島で育った力強い形や模様、さらに優れた伝統技術が日本本土の多くの人々に認められ、一目置かれる様になったのです。

第二次世界大戦において地上戦の舞台となり大きな痛手を受けた沖縄でしたが、幸い壺屋地区は比較的軽微な被害で済み、壺屋の復興はいち早く行われ徐々に壺屋焼の勢いを取り戻していきます。

戦後、那覇の町が復興すると共に住宅が増えたため、薪窯による煙害が深刻な問題となりました。那覇市は公害対策のため薪窯の使用を禁止し、壺屋に残る陶工は薪窯からガス・灯油窯に転換、薪窯にこだわる陶工は当時基地返還による広大な土地転用を模索していた読谷村に移窯することになりました。読谷村は元々読谷山花織など、伝統工芸に根付いた地であり、また周辺に良質な土が豊富にあったため、陶工には最適の場所となり「やちむんの里」周辺には多くの陶工が制作に励んでいます。

壺屋から産声をあげた陶工の灯は、今では沖縄本島離島全域に分散し、様々な作品を生み出しています。

名古屋骨董店にお任せください。

金城次郎は、その独特な技法と表現力で知られる芸術家であり、彼の作品は美術界で高い評価を受けています。この度買い取らせていただいた作品は、金城次郎の特徴的なスタイルを反映しており、芸術的価値を持つものです。

名古屋骨董店では、金城次郎の作品のような美術品をはじめ、骨董品や掛け軸など幅広いアイテムの買取に対応しています。当店は、各作品の年代、希少性、技術、保存状態などを詳細に評価し、適正な価格を提示します。

名古屋骨董店は、これらの貴重な作品が新たな愛好家の手に渡るよう、専門知識と経験を活かして丁寧に取り扱い、適切な価値評価と共にお客様にご提供しています。

投稿者プロフィール

名古屋骨董店
名古屋骨董店
名古屋市を中心に骨董品、美術品の買取販売をしております。
骨董品や美術品の世界をわかりやすくお伝えできれば嬉しいです。

大切にされたお品を、次に大切にしてくださる方へ橋渡し。
なるべく多くのお品を後世に遺すお手伝いをさせていただきます。