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双鶴図

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円山応挙の代表作

双鶴図八雲本陣記念財団蔵
白鷹図京都・大雲院蔵
山水図三井記念美術館蔵
花鳥図大英博物館蔵
牡丹孔雀図京都・相国寺蔵
郭子儀祝賀図三井記念美術館蔵
百蝶図徳川ミュージアム蔵
藤花図屛風根津美術館蔵

円山応挙の作家人生

円山応挙は1733年、京都府亀岡市曽我部町穴太の農家の次男として生まれました。穴太は西国三十三所の札所寺院、穴太寺で知られています。10代の後半に京都へ移り、石田幽汀に師事しました。20代では「眼鏡絵」と呼ばれる西洋遠近法を用いた絵を制作し、四条通柳馬場の玩具商である尾張屋中島勘兵衛に勤めていました。

1766年からは「応挙」と名乗り始め、この名前は中国の画家、銭舜挙に匹敵する画力を目指す意味が込められていました。彼の主要な支援者には妙法院門主の真仁法親王や豪商三井家が含まれ、彼らの支援のもとで『七難七福図』や『孔雀牡丹図』などの作品を残しました。応挙の作品は浮世絵的な雰囲気を持ちつつ、上方風俗図としても知られています。

彼は写生派の祖と呼ばれ、リアルな描写で知られていますが、その作品には個性が感じられ、実物をそのまま写し取る技術を超えた表現が見られます。この技法はヨーロッパのルネサンス期に体系化された透視遠近法に基づいており、応挙はこれを取り入れて新しい日本画の表現法として広めました。彼の死後もその教えは弟子たちに受け継がれ、近代の日本画に大きな影響を与えました。応挙は寛政7年、63歳で亡くなり、京都市右京区太秦の悟真寺に埋葬されています。

円山応挙の略歴 (Maruyama okyo)

享保18年(1733)5月1日丹波国桑田郡穴太村に生まれる
寛延2年(1749)狩野派の石田幽汀の門に入り、絵の画技を学ぶ
宝暦9年(1759)『眼鏡絵』を描いて西洋画法を習得
明和3年(1766)応挙を名乗り始める
安永元年(1772)三井家との交流がはじまり、惣領家で『夕涼み図』を描く
安永9年(1780)西本願寺に『春景海浜図壁貼付・袋戸』を描く
天明元年(1781)光格天皇の即位大礼のため『牡丹孔雀図屛風』を描く
天明6年(1786)紀州無量寺に『山水図』などを描く
寛政5年(1793)大乗寺に『竹図』を描く。この頃より病で制作に支障をきたす
寛政7年(1795)7月17日享年63歳。四条大宮西入悟真寺に眠る

応挙の支援者たち

円満院門主である祐常は、応挙の初期のキャリアに大きな影響を与えた人物です。祐常は五摂家の一つ、二条家出身で、実父は右大臣吉忠、養父は関白綱平でした。十二歳で得度し、円満院の大僧正になりました。祐常は自らより十歳年下の応挙を寵愛し、彼の才能を支えました。

十八世紀前半の知的潮流は、「森羅万象を写しとろうとした時代」と表現されるほど、さまざまな学問が盛んでした。特に本草学や人相学など、実物を観察して詳細に記録する学問が注目されました。祐常自身も草花の写生に興じ、日常のさまざまな事象を『萬誌』という書物に記録しました。この時代の影響を受け、応挙は写生画という形で自然をリアルに描くスタイルを確立し、彼の作品はその迫真性で知られるようになりました。

祐常の死後、応挙の主要な支援者として三井家がその役割を引き継ぎました。公家出身の祐常と異なり、三井越後屋は富裕な町人階級で、呉服商および両替商を営んでいました。応挙の作品は三井家だけでなく、京都の上層町人層にも広く受け入れられました。この新しい画風に彼らが敏感に反応した理由は、新興商人たちの進化する美意識にあったと考えられます。越後屋は1673年に登場した新興商人であり、古いタイプの商人から新しいタイプの商人への世代交代が起こっていた時期でした。従来の呉服商の商法は掛売りが主でしたが、越後屋は京都の西陣から安く仕入れた呉服を江戸で現金販売する画期的な商法で成功しました。これにより、不特定多数の顧客に対する販売を促進し、大名貸しを避けて経営の安定を図りました。このような商人層の世代交代は、経営思想の転換をもたらし、新興商人たちは応挙の革新的な写生画風に新たな美意識を見出し、彼らの美的直感に訴えかけるものとして受け入れられました。

円山応挙の買取

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円山応挙は江戸時代後期に活躍した画家で、円山派の創始者です。狩野派など複数の流派から影響を受け、写生に基づく独自の画風を開発しました。30代で円満院の門主・祐常から、その後は三井家を含む京都の町人から支援を受け、実験的な制作を行いました。応挙はその清新な画風で新興の商人層から支持され、多くの弟子を育てながら40代半ば以降は障壁画制作などを手掛け、国宝「雪松図屏風」や大乗寺の襖絵などの傑作を生み出しました。彼の画は物質的リアリティと空間の錯覚を組み合わせ、近代日本絵画の基礎を築きました。

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