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浦上玉堂の代表作

五言絶句愛知県美術館蔵
東雲篩雪図川端康成記念会蔵
煙霞帖梅澤記念館蔵
奇峯秋色図林原美術館蔵
籠煙惹滋図出光美術館蔵
雙峯挿雲図出光美術館蔵
秋色半分図愛知県美術館蔵
山紅於染図愛知県美術館蔵
酔雲醒月図愛知県美術館蔵

浦上玉堂の作家人生

玉堂は1745年に岡山藩の支藩である鴨方藩の藩邸で生まれました。その場所は今では岡山県立美術館が建っています。彼は播磨・備前の戦国大名である浦上氏の末裔であり、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされていますが、実際はさらに代は離れているようです。

鴨方藩の上級藩士でありながら、若い頃から学問、詩文、七絃琴などに親しみました。多数の絵画の他に、脱藩後には漢詩集『玉堂琴士集』も著しています。彼は藩士時代から「経誼館」と呼ばれる蔵書が豊富な施設を有し、岡山城下の豪商である河本家や大坂の豪商で文化人でもあった木村蒹葭堂との交流もありました。50歳の時には武士を辞して脱藩し、2人の子供を連れて出発しました(妻は2年前に亡くなっていました)。

友人の岡山藩士である斎藤一興によれば、玉堂は性格的に引っ込み思案で、書画や琴を楽しみ、詩を作り、雅人を招待して世俗から離れることを好んでいました。彼自身は岡山を二度と訪れることはありませんでしたが、その息子である春琴は何度か訪れ、孫が浦上家の再興を許されたとされています。

その後、玉堂は絵画と七絃琴を持ち歩きながら、江戸、京都、大坂、信濃などの各地を放浪しました。晩年には文化10年(1813年)には京都に落ち着き、そこで息子の秋琴を会津藩に仕官させるなど、経済的にも配慮しました。また、長崎では大田南畝、広島では頼春水、金沢では寺島蔵人、大坂では田能村竹田と交流しました。

特に60歳以降には多くの優れた作品を生み出し、その代表作である『東雲篩雪図』は川端康成の愛蔵品として知られています。玉堂の人生は、50歳での脱藩が彼にとって悲劇的なものとは限らず、むしろ自由と解放感に満ちたものであったと思われます。

浦上玉堂の略歴 (Uragami gyokudo)

延享2年(1745)備前岡山藩藩士・浦上兵右衛門宗純の第4子として、 岡山石関町に生まれる
宝曆元年(1751)父の宗純が亡くなり、家督を継ぎ、御広間詰となる
明和4年(1767)江戸勤務となり、玉田黙翁に儒学・医学を学ぶ
安永8年(1779)木村蒹葭堂を訪れる
天明4年(1784)この頃から詩の学びを深める
寛政6年(1794)二人の子供、春琴と秋琴を連れて脱藩し、城崎から脱藩届を提出し、以後、諸国を巡る
寛政7年(1795)会津藩の招聘で秋琴を伴い、江戸を発ち、秋琴は会津藩に仕える
文化4年(1807)大坂持明院で田能村竹田と同宿する
文政3年(1820年)9月4日京都にて没し、寺町本能寺に葬られる。享年76

木村蒹葭堂について

蒹葭堂は、書画や骨董品、珍しい品々を収集し、それらを検証することに努め、博学で多くの知識を持っていました。彼のもとには、大坂の文人だけでなく、上方や地方からも多くの文人が訪れました。

蒹葭堂は大坂の酒屋に生まれ、本草学や儒学を学び、絵は池大雅から学びました。彼の豊富な収集品は文人墨客が全国から訪れ、その交友関係の広さが『蒹葭堂日記』に記録されています。

蒹葭堂のもとを訪れた人々の中から、重要な画家たちが登場します。その中で代表的な画家として挙げられるのが浦上玉堂です。玉堂は備前池田家の支藩鴨方に仕え、琴や詩を学び、谷文晁らと画を学びました。彼は脱藩後、漂泊の画家として活動し、自然の大気を力強い描線で表現する独自の画風を持ちました。

また、木米は高芙蓉に学び、陶工として活動した後、奥田頴川に学んで中国陶磁史の専門書を翻刻しました。その色彩法は大胆で爽やかな印象を与えます。

さらに、田能村竹田は藩医の次男として生まれ、藩に仕えた後、南宗画を研究し、自身の様式を確立しました。彼の画風は温和で真摯であり、風雅に満ちた作品は南宗画芸術に近く、その品格と精緻さが魅力的です。

これらの画家たちは木村蒹葭堂のネットワークの一部であり、多様な芸術性を持っています。

浦上玉堂の買取

名古屋骨董店では、浦上玉堂の作品の買取をしております。名古屋市や愛知県、岐阜県、三重県、滋賀県を含む東海地方全域で、浦上玉堂の作品をお持ちのお客様に対して、出張買取させていただきます。

18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した浦上玉堂は、遊歴の文人画家として知られています。彼は1745年(延享2年)に岡山藩の支藩鴨方藩邸で生まれ、藩主の側近としての公務をこなしつつ、儒学や琴に親しむ日々を送りました。しかし、官職に左遷されたり、家族とともに脱藩したりするなど、文人生活への思いが次第に強まりました。彼は自らを琴士と自負し、絵を描くようになったのは30代半ば以降でした。彼の作品は、墨で描かれる山水画で繊細な筆遣いが表れています。

名古屋骨董店では、浦上玉堂の作品だけでなく、骨董品、絵画、掛け軸、など様々な品物の買取にも対応しています。東海地方にお住まいで、骨董品、美術品の買取をご検討中の方は、名古屋骨董店まで、ぜひお気軽にお問い合わせください。

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